尊厳死について

三連休も終わりました。今日はまだ試運転の方も多いと思われますので、スムースに復帰できるよう少々ハードな話題を一つ。

尊厳死についてのニュースが取り沙汰されています。
結局のところ、「人間は一人で生きているわけではないため、個人の判断によって命を絶つべきではない。」というところがワイドショー的な正しい結論となっているようです。
100人いれば100人の生き方があるというところまでは既存のメディアも認めてくれます。しかしその考えを突き詰めていく過程において、「自ら死を選択する」という決断が自殺と同じ意味を持つ言葉に置き換えられていきます。

テレビや新聞という媒体は、最初に結論ありきの構造になっています。
番組内の10分に満たない程度のコーナーやちょっとしたコラムであっても、何らかの教育的な結論を出さなければならないと考えてしまう、これがテレビや新聞というメディアの宿命なのです。(テレビ朝日の元の社名、日本教育テレビですから。)

「自ら死を選ぶということは、カトリックとして生きてきた私には容認できない。」とアメリカの新聞は、ある方の意見を報じます。しかしその後に「ただ彼女の選択は尊重したい。」という言葉が続いていたとしても、彼らが正しいと思う結論へ導くことができないと考えれば、その言葉は割愛されてしまう可能性があります。我々はそうした嘘ではない、加工された事実の存在を意識せねばなりません。テレビや新聞の存在を否定しているのではありません。歴史的背景によって、そうした特性を持たざるを得ないメディアであることを、我々が知っておく必要があるのです。

彼女は薬の副作用によって体重が増加し、鏡に映った己の姿が自分自身であることが信じられない、と話していました。これは彼女が今の自分が理想とする己の姿からかけ離れている事実に対し、脳腫瘍による耐えがたい痛みと同じような苦痛を感じていることに他なりません。
彼女の選択は決して発作的なものではなく、夫や親友たちと十分話し合ったはずです。少なくとも条件付きで尊厳死を認めているオレゴン州に引っ越すことができる時間があったのですから。
自分の命についての問題、他の誰よりも真剣に考えたはずです。その上での彼女の決断、何よりも尊重されなければなりませんし、また他の誰かが「彼女は間違っている。」というような指摘ができない個人的な問題なのです。

この問題には正しい答えなど存在しません。哲学者の中島 義道先生は、「考えろ、しかしいくら考えてもその答えは導きだすことはできない。考え続けることに意味がある。」とおっしゃっています。このテーマに関しても我々が論ずることは無駄なことではなく、その過程に大きな目的があるのです。
彼女は、『死を論ずることによって、生きるということを考える機会』を我々に与えてくれたのです。

彼女の御主人は彼女がいなくなってしまうことに対し、複雑な感情を抱いたはずです。しかし彼女を愛しているが故、彼女の決断を尊重し、安楽死するための薬の投与に同意されたのだと考えます。この問題に関しては当事者の方々の発言、全てが正しいのです。

近年、日本でも他人とは違うことを是とする教育が行われています。しかしその違いを十分に尊重するというところまでの配慮はなされていません。
新しいメディアであるインターネットは全員一致の結論を出すことはまずありません。
反社会的(これも難しい定義ではありますが)ではなければ、それぞれの意見は容認されることになります。

私の考えとは異なっているが、あなたの意見は尊重する。

異なった意見を持った人に対して、否定や攻撃をするのではなく、そうした考え方や意見もあるのだなという寛容な心を持ち、その存在を認めるということが、このような場合の尊重であると考えます。
そうした共通認識を、我々が育むことによって、ネットへのイメージが改善され、旧体制のメディアも変えていくことができるのではないかと思います。

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